一条教房

教房は応永30年(1423)一条兼良の長子として京都で生まれた。

左大臣を経て長禄2年(1458)関白となり寛正4年(1463)

その職を辞した。応仁の乱で京都を逃れた教房は幡多の荘園の回復の為

応仁2年(1468)10月中村に下向した。公は中村の都市化を計画し

その地形が京都に似ている為、京をしのぶ地名を付け京文化の移入を計る等、

その功績は極めて大きかった。土佐一条氏の開祖で在国13年文明12年

(1480)10月5日、58歳で没した。