四万十市中村の歴史
一條氏とは
一條氏は元は藤原氏であることはご存知のとおりで有りますが「大化の改新」において中大兄皇子と共に蘇我入鹿を誅しその後藤原京にちなんで藤原を姓とし繁栄に繁栄を重ね公家の全てが藤原氏となり、その為に住居地を苗字として分家を始めました。
藤原家の氏神様が奈良の春日大社であり、そのご神木が「なぎの木」です。
四万十市の中村大橋通の東部の街路樹はその関係でなぎの木にしています。
佐岡には春日神社もあります。
公家のランクは摂政関白になれる家柄を最高として摂関家(五摂家)と言い近衛、鷹司、九條、一條、二條の5家です。その次の家柄を清華家と言い7家 その次を羽林家25家 その次を名家16家 その次を大臣家3家、と貴族の中にもたくさんのランクがありますが一條家はそのように代々総理大臣を務めるという最高のランクの家系であります。
中村に来たのは一條教房といい、その父は室町時代最高の碩学と言われた一條兼良で、この方は有名な一休さんと同じ年代の人です。
土佐一條家
(参考資料土佐一條家年代表)
1467年応仁の乱により京都の町が火の海となり弟尋尊が門跡である為、奈良の興福寺へと避難していましたが一向に戦火は収まらず。戦国動乱の中で荘園からの年貢が滞るのを回復する為、神戸に長男政房を送ったが戦乱の中で死亡した。父兼良は越前朝倉へ荘園返済の交渉に行った。教房は荘園確保と戦火を逃れる為に中村へ下向した。このとき教房51歳。幡多へ下向した教房は土佐清水の加久見氏から後妻を娶りこれを正妻とした。正妻とはその子供は本家を継ぐと言うことであり一條家の正妻に加久見氏を迎えると言うことは京の一條一族を差し置いて本家の後継者になると言うことです。房家は京の一條家を相続する事を義務付けられていたのです。しかし房家が5歳の時父一條教房
は58才で中村で亡くなったため大変苦労をしました。一條房家は名門一條家の後継者となりました。田舎では有りえない冠位で正二位、権大納言になりました。37歳(1513年)から5年間京都へ登り公家としての勤めを果たすとともに顔つなぎをして帰ってきました。土佐を離れてしまう事が出来ない事情があったのでしょう。房家を京の一条家とは別に土佐一條家とし、初代と数えます。
その長子二代房冬も26歳から京都に上り正二位権中納言という高位につき18年間を京都で過ごし中村帰郷後1年で亡くなりました。44才でした。婦人は伏見宮玉姫
と言います。房冬の弟房通が土佐から京に上り京一條家を継ぎ関白になりました。房通の子兼冬も関白に成りましたが後継者が出来ません。
三代一條房基
は一度も京都に上りませんが従三位になっています28歳で自殺した。京都へ行けない事情が有ったのか、身体が丈夫でなかったのか、地元で問題があったのか不明です。なにしろこの頃が一條家の最高の時期ですから、なぜ28歳で自殺したのか?
四代兼定は徳川家康と同年です。10歳から京都に上り7年間を過ごしていますこの間、11歳で従三位となり京一條家兼冬の跡を継ぎ関白に成るのではないかと期待されますが、兼冬の弟、内基が養子となり跡を継ぐと土佐に帰ってきます。この時まで兼定は本家の後継者争いで内基と互角の立場に居たのですが関白後継競争に敗れています。
永禄2年兼定は土佐に帰り土佐一條を継ぐのですが地元では源康政が権勢を振るっており兼定のなすべき事は無かったのではないかと思われます。
永禄3年(織田信長が桶狭間の合戦の年)兼定は土佐市の蓮池を攻めた後、長宗我部を始め土佐中部西部の軍団を率いて九州の大友宗麟の協力も得、伊予の西園寺、河野に決戦を挑みます。このとき河野一族は毛利元就の三男小早川隆景
の協力を得て対抗します。大洲の南、鳥坂峠の合戦で全滅に近い状態で土佐軍団は引き上げることなり、一條家の権威は失墜してしまいました。その期に乗じた長宗我部元親
は一條家の影響力の減じたところへ徐々に勢力を拡大します。兼定は大敗北の責任と康政との板ばさみであせり、酒と女に逃げ場を求めた物と思われます。長宗我部はそこを見逃さず、名門一條家再興のためには兼定ではダメで他に変えるべきという方針で一條氏に対応します。案の定一條家内部に兼定派(京都組)と康政派(地元組)との内部抗争が始まります。中村を追われた兼定はまさか長宗我部ごときに負けてしまうとは思いもせず来年には帰ってくるぞと言う意気込みを詩にします「植えおきし 庭の藤が枝心あらば こん春ばかり 咲くな匂うな」長宗我部などに負けてたまるか、来年には帰ってくるから、それまで藤の花も咲かずに待っておれ、長宗我部などに咲いて見せるなよ、という気持ちが伝わってきます。再び帰る事の無かった主人の言い付けを守り二度と咲かなくなった藤を「咲かずの藤」と言い、今でも一條神社の境内に残っています。この藤が咲いたのは、それから約300年後の文久元年(1861年)と言われています。
兼定32歳のとき関白内基が中村へ来て兼定を権中納言にします。と同時に兼定は出家するという不可解な行動がありますそして関白内基は3年間中村に滞在します。兼定が中村から居なくなったので内基が土佐一條家を守ったのかもしれません。その後、兼定は母と妻の実家である九州の大友宗麟の援軍を引き連れ渡川の合戦に臨みます。渡川合戦に敗れると内基は京へ帰ってしまいます。
土佐一條家初代、一条房家が苦心して中村の街づくりをしていた頃、
土佐の中部地区では長宗我部兼序が守護代細川氏の威光を笠に羽振りを利かせ始め、これを快く思わぬ本山、津野らの勢力が長宗我部を包囲し滅ぼします。 その子国親を中村へ引き取って育てたのが房家でした。これは将来一條家の家臣団として土佐中部で再興させ最前線の守備固めの計画であったに相違ありません。国親の子が元親です。国親が土佐の中部で力を持てば、安芸国虎に一條兼定の姉峰子を妻として娶わせたのであるから、土佐一国は一條家の意向が浸透するという長期方針が見て取れます。ところが時代の変化は予想以上に早く、門閥、家名には何ら権威を感じない群雄が活躍する時代が来てしまっていたのです。
一條兼定の一生を見てみると、なんともいえない人生のはかなさを感じます。わずか10歳で土佐の僻地から、たとえ戦乱に荒れたとはいえ京の都で17歳までの多感な時期を、将来の関白か、とも言われ、天皇家とも懇意にし名門エリートとして過ごし、17歳で都落ちに近い状態で中村へ帰り、その翌年から戦国武将として采配を振るい、片田舎の長宗我部などと言う名も無き戦国武将に良い様にやっつけられ、家臣から追放され、キリシタンに帰依しドン・パウロとして洗礼を受け、宇和島沖の火振島の横の戸島と言う小さな島でひっそりと暮らしているところへ乳母の子である蕨岡の入江左近という幼馴染がやってきて長宗我部の刺客として兼定の片腕を切り落とした。戸島では宮様と言われ大事にされたが淋しく死んでいった。
こうして見ると、一條家という家柄がどういうものか良くわかると思いますが、織田や武田、今川、毛利ましてや長宗我部等とは格が違うのです。何しろ中国の大内義隆などは一條房家の子が養子に行った時など一條家から養子が来てくれたと、大喜びをしたくらいです、ちなみにその頃は大内、大友、一條は親戚関係を結び、西瀬戸地域をがっちりと押さえており、遣明船を支配していたのです。その後大友が衰え大内が陶に毛利に取って代わられ、長宗我部が強くなり四国統一を果たしますが、織田信長の臣豊臣秀吉に敗れ、関が原、大阪で破れ山内家の時代となります。中村では一條100年、長宗我部30年と言われます。
長宗我部国親が嫡男元親の妻を美濃斉藤家から娶ったのは、国親が中村で一條家の行動を見ており当時の朝廷では美濃の斉藤家が当時の新進気鋭の武家と見ていたものと思われ、折に触れ国親は中央のその様な情報を得、これからは美濃の斉藤家が中央で有力に成るであろうと見ていたのであろう。
山内家について
山内一豊の祖父久豊は尾張岩倉の織田信安に属する黒田城主であり、父盛豊は織田家の内紛により織田信長に滅ぼされた、一豊はその後織田信長の発展に従い家臣となる。妻は美濃三人衆と言われた不破家の養女で千代という。嫁入り前に貰った持参金をヘソクリとして、名馬を買った事で名をあげたのは有名である。
その後木下藤吉郎の家臣となり、大いに発展する。越前朝倉を攻めた織田軍勢が浅井の裏切りにより越前金ヶ崎城退却となる前の有名なわらじの話は五藤吉兵衛が一豊の顔に刺さった矢をわらじのまま土足で顔を踏みつけて引き抜いたとして、そのわらじは家老五藤家の家宝となった。それは家臣が少ない頃の話であり、譜代の臣は五藤と祖父江であった。その後、近江長浜城主、若狭高浜城主、再び近江長浜城主、遠州掛川城主となり、ついに土佐20万石の一国の主となった。
土佐国主山内一豊は弟康豊(修理亮)に2万石を与え慶長6年6月(1601年)中村に住まわせた。一豊には子が無く二代藩主は弟康豊の長男忠義が継いだ。歴代の土佐藩主は一豊でなく、弟康豊の子孫が継いだ。忠義は将軍秀忠から忠の一字を貰い、妻は徳川家康の異母弟松平定勝の娘を家康の養女とし家康の娘として婚礼を行った。これにより山内家は松平土佐守と言われ外様大名ではあるものの徳川の親戚としての取扱いをされるようになった。
中村三万石について
康豊(修理亮)が中村初代藩主となり元禄2年(1689)五代で廃藩となるまで、中村山内氏は土居屋敷(刑務所跡)に邸宅を構え、中村城を居城としてこの地を治めた。一豊に男子無く康豊の長男忠義(徳川秀忠の忠をもらう)(1605〜1656)に跡を取らせた。康豊死後の中村は忠義の弟吉兵衛政豊が跡を継いだが寛永6年4月32才で卒し家は断絶となった。
三代藩主忠豊は弟山内忠直
(修理大夫)に3万石を与え中村に住まわせた。
忠直は土佐二代藩主忠義の2男で慶長18年に生まれる。明暦2年(1656)中村藩主となり寛文7年(1667)53歳で没した。墓の大五輪搭は県下最大で、首から上の病気で苦しむ人々の信仰を集めている。
中村最後の藩主、山内大膳亮豊明の謎
中村3万石は康豊、政豊のあとは高知からの忠直(修理大夫)、次は長男豊定が継いだ。山内大膳亮豊明は直久とも言い、寛永19年9月(1642年)忠直の2男として生まれたが、数奇な運命をたどる事となる。
1642年・寛永19年 9月 生
1667年・寛文 7年 6月 9日忠直(修理大夫)死去豊定2万7千石継ぐ。
同 ・ 同 8月27日豊明(26歳)中村3万石の内、三千石を分知
幕府寄合に列す。
1673年・延宝元年 豊明(31歳)長男豊成生
1677年・延宝 5年 9月 6日豊定嫡子国助(豊次)生(兄の子)
延宝 5年12月14日豊明(36歳)中村3万石2代藩主となる。
1689年・元禄 2年 6月12日養子国助(豊次)13才にて没
同 8月 4日豊明所領没収。48才
次男九郎太郎と共に浜松の青山下野守へ預。
1697年・元禄10年 6月25日幡多3万石拝領
1704年・宝永元年 1月17日豊明没(63歳)
宝永元年11月13日長男、豊成 幕府寄合に列す。
1707年・宝永4年 宝永の大地震発生 幡多地区壊滅土佐藩被害甚大。
大膳亮は直久とも言い中村在住で3万石の藩主となったが、兄の子に藩主を譲
るべく、自分の子があるにもかかわらず、兄の子を養子として跡取りとして据えた。大膳亮は将軍綱吉に近従したが、若年寄拝命を固持したために改易となるが国助の死と所領没収の間は2ヶ月足らずで有り、関係が有るのでは無いか?この時期元禄2年四万十川の氾濫が多発し財政が困窮したのか?
また大膳亮の死と同時に長男が寄合に列せられていることに幕府の贖罪が感じられる。
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山内一豊 |
忠豊 |
豊昌 |
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大用寺葬る |
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康豊 |
忠義 |
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修理亮 |
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政豊 X |
忠直 |
豊定 |
国助 |
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吉兵衛 修理大夫 |
右近大夫 |
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一唯 |
豊明 |
国助 |
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吉助
大膳亮 |
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豊成 |
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幕末の中村市(一條神社と尊王思想)
一條神社というのは、私の私見ですが、一種の新興宗教の一つのようなもので(こんな事を言うと怒る人も居ると思いますが)、時代の流れというか幕末の頃、国学や水戸学の流れから勤王思想こそ徳川幕府のバックボーンであり、将軍は天皇に任命されて国の運営を任されているのであり天皇家を守る為に幕府があり、その運営が出来るのであるという理論で、水戸藩がというより徳川斉昭が幕府の運営に当たる官僚たちから、幕府内部で実権を握るための理論として勤王思想による幕政主導権奪取闘争を展開する中で、天皇家の意志を実行する者が幕府の中枢で国政をになうべきである。という理論展開を始めたところ、それをより過激なグループに利用され幕府は不用で、これに取って替わって天皇中心の国家を作ろうと言う、明治維新という思わぬ展開になってしまった。このような時代の流れが全国に展開されて行く中で、田舎でも地方でも少しでも知識のある、富裕階層にとって新しい理論のブームとして勤皇、尊皇思想こそこれからの思想である、西欧諸国は王を中心として一つの国に統一されている。これからの日本もそう有るべきでそれを実現するのが徳川幕府であり守られるべき者が天皇である。この尊皇思想を何とか形にしたいと言うことから、時の幡多事務所の所長が時の商工会議所の会長か区長会長に何とかして幡多の尊皇思想を形にしてみたい、と言うことの中から、文久元年たまたま一條さんの庭の不咲の藤(さかずのふじ)が咲いた、これは何かの吉兆であるに違いない。中村には昔天皇家に最も近い五摂家の一條公が居たではないか、これをお祭りして勤王思想を広めるべきであろう。と言うことからはじまって、寄付を幡多郡下一円から集め、文久2年(坂本龍馬が脱藩をした年)一條神社を建立し、このお祭りになんとか大勢の人を集める為のイベントはないか、ということから始めたのが一条さんの相撲大会なのです。それだけに代々続いた氏神様やお寺のように、しっかりした檀家や氏子がなく、資金面で弱いのだと思います。ですからお宮を建て替えようとすると先立つ物が少なく、今後大きな問題に成るのではないかと心配しています。